”乳房”のメタファ(metaphor)としての意味がいまいち理解出来ていないので、偉そうなことは言えないが、この小説は、大阪弁で読まないと、感じないと駄目だ。しかも、少し違った大阪弁だ。どちらかと言うと感音式大阪弁とでも言うべきなのだろう。
例えば、標準語で「沢山」は大阪弁で「ぎょうさん」、この小説では「ようさん」、ヨにアクセントが来る。確かに、「よう~さん」そのように発音する。
兎に角、センテンスが長い。よちよち歩きの読書家としての私には、新鮮に感ずる以前に苦痛であった。まあ、音楽で言えばジャズを齧りだした頃に、いきなりアルバート・アイラーを聞かされたようなものだ。
私が高1の頃、マイルス・デイビスの音色がとても汚く思えてしかたなかった、ところが今では、こんなにも体中をふわっと包み込んでくれる音はなかなか見つからないと思えるくらい愛しい音に思えてくるものだ。
そんな事を考えれば、
川上未映子氏のこの表現方法は後に私にとって素敵に思えてくるのかもしれない。
様々なフラグメントを張り合わせ理解してみるも、今の私には一読では理解し得ない、再読・熟読が求められる。
以前、日野皓正氏がマイルスの新作を聞いた時、イマイチ納得がいかなかったらしい、そこで
プーさん(菊池雅章)のところに行き、意見を求めた。するとプーさんは「そうかあ?もう一度聞きなおしてみたらどうなんだ、俺にはすごい事をやっているように思えるんだが・・・。」と言われたそうだ。その後、日野皓正氏はレコードが擦り切れるくらい聞き込んでいった。そして「俺は次の世界を見る事が出来た。」とラジオで言っていた。
・・・・・・・