Profile 【阿野裕行】
京都市生まれ。うお座・B型。長崎大学工学部 材料工学科に入学。軽音楽部Swing Boat Jazz Orchestra 入部をきっかけにジャズの道に転向。日本のジャズオルガンの帝王、酒井潮氏にジャズオルガン・ジャズピアノを師事。1982年、長崎市内に阿野音楽教室を開校。2024年7月7日で音楽教室も42周年を迎える。現在生徒総数は120名、卒業生にはプロのミュージシャン・講師等多数輩出している。ハモンドオルガン【日本ハモンド社】・ジャズピアノ・アトリエオルガン・コンピュータミュージック【ローランド社】各講師資格取得。Jazz Club Goody-Goody・Jazz FanFan・Star Bucks Coffee ・blue note等多くのレギュラーLIVEをこなす。趣味 カメラ・散策・英会話。 2007.08 映画 柏原寛司監督作品「錬鑑Bros.Ⅱ」にjazz unitとして出演。 2010.02 松田昌氏と”これがピアニカだ!”で共演。 2014.06 ”きくちゃんのうた2”で「愛の中で生きているよ」(2014.06.20リリース。)の作曲・編曲を担当。 2015.03 長崎の結婚相談所”シンパシー”さんの情報機関紙にスタンダードジャズ詩の中の男と女として年間6回コラム執筆。 株式会社アノミュージックハウス 代表取締役 ●阿野音楽教室(ジャズ&ポップス/クラシック) ●レンタルスタジオANO ●演奏(ジャズ) カテゴリ
阿野音楽教室 プロフィール Youtube 阿野裕行演奏 演奏作品 ピアノ・ピアニカ ライブ・コンサート ウェディングパーティー 採譜/編曲/作曲/伴奏制作 この1曲! 出来事 爆笑!天然ボケ編 読書・書評・感想 料理・・グルメ エッセー 探訪・散策 レンタルスタジオ 作詞家・作曲家・音楽家 リスト 作詞・作曲・音楽家 リスト ジャズボーカル オカリナ 阿野音楽教室 ピアニカ 阿野音楽教室 bodyⅡsoul レコーディングスタジオ 阿野裕行オリジナル編曲 スタンダードジャズにおける男と女 以前の記事
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Lester Young レスター・ヤング
Lester Willis Young tenor sax, clarinet 1909/08/27 ミシシッピー州ウッドヴィル 生まれ 1959/03/15 ニューヨーク 死亡 生後しばらくしてニューオリシズに移り、10歳までその地で楽しく育ったという。 「ニューオリンズみたいな街では、今夜ダンス・パーティがあるなんていうときには、トラックで宣伝して回るんだ。それを聴くと、オレはもう、ワクワクしてね。で、オレもビラ配りをやったんだ。ビラをもらって、あっちこっち走り回ってはビラを配る。そんなことをしてたんだ。あの音楽が好きでたまらなかったからね」 レスター自身、ジャズ発祥の地ニューオリンズでの少年時代を思い出してこんな言葉を残している。ただしこの言葉自体は、いままでにフランスのジャズ雑誌「Jazz Hot」のインタヴュー記事を素として様々な形で紹介されてきた(例えば『Jazz Hot/ジャズ・ジャイアンツ・インタビュー集』JICC出版局など)。それが今回、ボックスCD『コンプリート・レスター・ヤング・スタジオ・セッションズ・オン・ヴァーヴ』の中に、そのままのインタヴューの形で収録されたのである。レスターがパリのブルーノートに出演中だった1959年2月のインタヴューということだから、最晩年の本人の生の声。このあとニューヨークに戻ってすぐの3月15日、ホテルのベッドの上で病死していたところを発見されるという、悲しい結末を迎えることになるレスターの、貴重な発言に耳を傾けてみてはいかがだろう。 レスターが10歳になったとき両親が離婚して、彼は親権を獲得した父親の元での生活を始めることになる。ニューオリンズを離れ、メンフィスを経てミネアポリスに移り住んだ彼は、父親の指導で、ビラ配りをしながらあこがれていたのがトラックの上で演奏しているドラマーだったことから、最初にドラム、次にアルト・サックスを吹き出した(どうしてアルトに替わったかの話がまた面白いのだが、先のインタヴュー中に語っているので聴いてみてください)。他にもトランペット、ヴァイオリンを父から習い家族で巡業したりしている。 最初は譜面が読めなかったそうだが、父親の特訓により好きではないが読めるようになり、28年頃にはテナーを手に入れ、父親の元から独立した。 1933年12月のある日、カンザス・シティで仕事をしていたレスターは、ニューヨークからやってきたフレッチャー・ヘンダーソンに頼まれて彼のオーケストラの大スター、コールマン・ホーキンスのトラ(エキストラ;代役)として1ステージだけのセッションにつきあった。ホーキンスがその夜の開演に間に合わなかったからということなのだが、このときまで、レスターはホーキンスとはまだ顔を合わせたことはなかったのである。 ジャズ・テナーの歴史は、レスターよりも誰よりも、まずホーキンスから始まった、というのがいまもそうだがこの頃も、"ひとつの常識"として伝たっていた。「噂で聞いただけのホーキンスの演奏を聴いてみたい!」とクラブにやってきたレスターに、実は大きな人生の転機が待っていた。 1ステージの演奏を終え、あとから到着したホーキンスの演奏を観ることもなく自分の仕事の場へと戻ったレスターだったが、アフター・アワーに、「とあるクラブにホーキンスが現れた」という知らせが飛ぴ込んできた。 「ホーキンスがいるということが伝わると、三十分もたたないうちに、レスター・ヤング、ベン・ウェブスター、ハーシェル・エヴァンス、ハーマン・ウォルダー、それにもう一人二人無名のテナー・マンたちが、ちょっと吹いてやるか、このクラブにドヤドヤと入ってきました」 カンザスでピアニストとして活躍していたメリー・ルー・ウィリアムスの証言である(『私の話を聞いてくれ/ザ・ストーリー・オヴ・ジャズ』ナット・シャピロ&ナット・ヘントフ編著・筑摩書房)。こうしてホーキンスとレスターたちの熱い壮絶なテナー・バトルが明くる日の昼頃まで続いたという。このエピソードがロバート・アルトマン監督の映画『カンザス・シティ』の中に使われジョシュア・レッドマンとジェイムス・カーターが、ホーキンスとレスターにに扮してインプロヴィゼーション合戦を続けた。悪名高き禁酒法時代の語だが、カンザスにはシカゴのカポネよりもあくどいといわれたトム・ペンダーガストという大ボスがいたおかげで、閉店時間などまるで決まっていないこんなクラブがあったのだ。 それからしばらくして、そのときのレスターの演奏に注目したフレッチャー・ヘンダーソンからジャズの都ニューヨークに来ないかという誘いがきた。ヨーロッパヘ旅立ったホーキンスの後任としてメンバーの一員にならないかというのだが、ところが、「ホーキンスのようにどうして演奏できないの?」と繰り返すメンバーやヘンダーソン夫人の悪口のおかげで、3ヵ月少しでレスターはカンザスヘとすごすごと引き返すことになる。 しかしこのことをきっかけにして、彼はさらなる精進を開始した。1936年には、ニューヨークに来る前ほんの一時期いっしょに仕事をしたことのあるカウント・ベイシー・オーケストラの一員となり、シカゴで初めてのレコーディングを経験。その後デッカやコロムビア・レーべルに多く残されたこの1930年代後半から1940年末までのベイシー・バンド時代のレスターの演奏は、スウィング時代というスタイルの古さを越えて、いまも聴く者に感動を呼び起こす。ビ・バップの創始者のひとり、チャーリー・パーカーは、このベイシー・バンドのレコードを持って山にこもり、完壁に吹きこなす練習をして自らのスタイル形成の基とした。ドイツの評論家ヨアヒム・べーレントの著『ジャズ/ラグタイムからロックまで』(油井正一訳/誠文堂新光社)には、「マイルス・デヴィスの九人編成コンボ(キャピトル)のサウンドは、レスター・ヤングのテナーの音をオーケストラ化したものといわれている」という記述がある。また、「マーシャル・スターンズがたとえたように、レスターはジャズのセザンヌである。このたとえには彼の芸術ばかりでなく、その歴史的な地位も含んでいる。近代絵画がセザンヌにはじまったと同様、モダン・ジャズはレスター・ヤングからはじまった」とも書かれている。レスターとはどう考えてもかなりそのスタイルはかけ離れている、と誰もが思うだろうジョン・コルトレーンでさえも、ある時、「誰でもレスター・ヤングを手本にせざるを得ない時期があるものだ」と語ったことがあるという(『ジャズ入門』エドワード・リー著音楽之友社)。 ジャズ・テナーの父と呼ぱれたホーキンスに対して、その音色のやさしさ、ノン・ヴィブラート感覚や、コード進行に対する分散アルペジオを多用することなく、スケール・トーンやテンション・ノートをメロディックに使ってフレイジングするその演奏スタイルに、現代にまで繋がる"モダン"さを指摘することは容易である。また、常にそのメロディに付けられた歌詞を口ずさみながら吹く、ともいわれるし、リズムの面での"ポリリズム"感覚(アルトの知性派リー・コニッツなどが指摘している)も、当然ながら、現在の演奏者にとって興味深いところである。 ホーキンスのつながるべきところでつながり、切れるべきところで切れる、論理的なフレージングに対し、レスターはその反対に、つながるべきところでプツリと切れたり、切れるはずのフレーズがそのまま次につながったりする、当時としては異端のフレージングを用いた。ホークの太く遅ましい音色に対し、レスターのそれはソフトでもの憂げであった。顕著なヴィプラートを身上としたホークに対し、レスターにはほとんどヴィブラートがなかった。 ビリー・ホリデイはこうしたレスターのテナーを愛し、彼にプレジデントというアダナをつけた「デューク」エリントン、「力ウント」ベイシー、「キング」オリヴァーと、アメリ力にない称号をもつプレイヤーは沢山いたが、アメリ力でいちばん偉いのは大統領だから・・・・・・というのがその理由だった。プレンデントはその後簡略化されて「プレス」(プレズともいう)となり、チャーリー・パーカーの「バード」同様、誰にでも通用するアダナとなった。兵役中、妻が白人というだけで上官から人種差別と屈辱的な扱いを受け続けたり、麻薬とアルコールなどのせいもあり精神を完全に疲弊。療養生活を繰り返し、57年3月15日に死去。 album : PRESS AND TEDDY Lester Leaps In 参加アルバム : AT THE OPERA HOUSE compose : Tickle Toe 1940 阿野音楽教室(Jazz&pops/classical)
by a-clefclef
| 2008-06-23 10:25
| 作詞家・作曲家・音楽家
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